医療法人 社団昭峰会 戸田内科・リハビリテーション科

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スウェーデンの医療
戸田和夫
  • もくじ
    • スウェーデンと言う国
    • スウェーデンの歴史
    • 好戦国家から福祉国家へ(1)
    • 好戦国家から福祉国家へ(2)
    • 普遍主義
    • 社民党の政策
    • コーポラティズム
    • スウェーデンの現在の社会保障(1)
    • スウェーデンの現在の社会保障(2)

 

 

  • スウェーデンと言う国

 『スウェーデン』という国名は、最も有力な部族であったスヴェア人の国と言う意味の『スヴェーリエ』から来ています。
 スウェーデンはスカンジナヴィア半島の東半分を占め、南北約1,600km、東西約500kmと細長い国土です。
 東はボスニア湾とバルト海、南はバルト海(バルト三国は北からエストニア・ラトビア・リトアニアを指します)、西は3つの海峡に面し、陸上ではフィンランドおよびノルウェーと国境を接しています。
 国土の約50%は森林であり、全土に大小約9万6千の湖が点在します。気候は総じて海洋性と大陸性との中間的特徴を呈しますが、地域的には三方を海に囲まれた南部は冬温暖な海洋性を示し、北上するに伴い冬の温度は急激に降下していきます。
 南部のスコーネ地方では雪に覆われる期間は1カ月にすぎませんが、中部では3カ月程度、北部では6~7カ月に及びます。
 国の面積は45万km2で、日本の約1.5倍となりますが、人口は884,6万人と、日本の約15分の1にあたります。
 従って、人口密度は日本が341.8人/km2であるのに対して、スウェーデンは20人/km2に過ぎません。
 首都はストックホルムで、立憲君主制を引いており、通貨はスウェーデン=クローネ、公 用 語はスウェーデン語です。
 主な有名人としては、ダイナマイトの発明者で有名なノーベル博士、歌手のABBA(アバ)、テニスプレイヤーのビヨン・ボルグなどがいます。
 次回は、スウェーデンの歴史について、お話します。 もともと好戦的なバイキングが、なぜ現在のような福祉国家になったのか、大変興味深いところですよ。

 

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  • スウェーデンの歴史

  スウェーデンが始めて歴史の書物に登場するのは、1世紀の末のことです。
 しかし、実際に広くその名を轟かせたのは、8世紀末から11世紀にかけてヨーロッパ全域で恐れられた海賊「バイキング」としてでしょう。
 ところが、実際のバイキングと言うのは、ただ略奪を繰り返すような残虐な集団ではなかったようで、貨幣や物々交換による商業としての交易をも確立していたようです。
 主にバルト海からロシアにかけての領域が縄張りだったようです。 
 このあたりは北欧の古代史にあたる時代です。
 800年前半にスウェーデンにおける最初の王国が建設され、何代かを経てバイキングが滅んだ頃あたりから、北欧の中世に入ります。まだその頃は、もともと気性の荒い国民性からか、王族間で激しい抗争を繰り返していた時代です。
 やがて、東ローマ帝国が衰退してくると、北欧ではデンマークを中心とした同盟(カルマル同盟)を作って組織作りを始めます。
 しかし、スウェーデンの開国の祖と呼ばれたグスタヴ―ヴァーサⅠ世が、これに対抗し、また農民の反乱を利用して、デンマークからの独立を果たします。
 このころからスウェーデンは近世に入ります。
 もっとも、この頃でも内紛は後を絶たず、これに宗教闘争も絡んで、とても穏やかな情勢ではありませんでした。 
 こんな時代ですが、当時100万ほどしかいない、この小さな農業国(当時のフランスの人口は2000万人)で、国民の多くが文字を理解できる文明国だったといいます(17世紀の時点で、国民の80%が文字を読めていたと言われます。 16世紀のイギリスでは1~2割程度しか文字を読める人がいなかったそうですから、驚きです。
 これは、バイキング時代の広い交易が関与していたとも言われていますが、詳細は不明です。
 ただし、国民の多くが文字を読めると言うことは、国の施策や諸制度の普及、または商業の発展に大きく寄与するので、すばらしい文明度であったことが伺われます。
 その一方で、好戦的な国王が出ては、その征服欲から領地の拡大を企て、戦争によって領土を拡大していくと言う二面性を持ち合わせていました。
 最も領土が拡大した時には、スカンジナビア半島はおろか、バルト海沿岸諸国やロシア・ポーランド・ドイツの一部にまで、その支配がおよんでいたようです。
 ところが、18世紀に入ると、ロシアやナポレオン時代のフランスに圧倒され、領土がどんどん縮小されていきます。
 1814年、最後の戦争を行なった後、スウェーデンに残ったものは、現在の領土と経済的な疲弊だけだったのです。 
 スウェーデンは、この時二度と戦争には加わらないことを決め、そして現在に至るまで、ただの一度も戦争には加わっていないのです。
 ちなみに、現在200年近くも戦争をしていない国はほぼ皆無だそうです。
 バイキングを祖先に持ち、好戦的な民族は、この時点を境に平和的な民族に変容しました。 
 次回は、この歴史を受けて、スウェーデンが行なった社会制度のことを解説します。

 


 

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  • 好戦国家から福祉国家へ(1)

 19世紀の始めまで数世紀に渡り、スウェーデンは、国の存続の為、国内の平和を維持する為の戦争を繰り返してきました。
 しかし、度重なる戦争は国家の経済を疲れさせ、海外(特にアメリカ)に移民する国民が増えて、人口の減少が深刻化するという状況に追い込まれていました。 
 ところがそんな頃、18世紀後半にイギリスから始まってヨーロッパ全域に広がりつつあった産業革命が、スウェーデンの変革を急速に進めていくきっかけを作ります。
 まず、1856年に開始された鉄道建設が1870年代に本格化して交通網の整備が行われ、北スウェーデンの森林、鉱石、水力発電などの豊かな自然資源が、突如容易にスウェーデンの他の地域でも入手可能になり、海外市場への輸出も可能になりました。
 当時、他の西ヨーロッパ地域では、既に産業主義が大幅に始まっており、スウェーデン木材や金属鉱石や産業製品に対する需要はほとんど限りがない状態であったため、富がスウェーデンに流れ込み始めたのです。
 20世紀に入ると二度にわたる世界大戦が勃発しましたが中立を固持し、世界的な大恐慌期には、社会民主党が恐慌克服のための大胆な財政政策と公共事業を含む対応策に加えて、福祉国家実現へ向けての政策に着手しました。
 1940年4月にデンマークとノルウェーがドイツ軍に占領された後は、ドイツに対し兵員や軍事物資の領内通過などで一連の譲歩を余儀なくされますが、ドイツ軍が大敗した1943年以降はドイツとの関係を弱めていきます。
 一方、スウェーデンは大戦中、他の北欧諸国の問題に直接関与することはしませんでしたが、フィンランドに対しては義勇軍や武器を送ったり、多数の亡命者、とくにデンマーク在住ユダヤ人やレジスタンスに避難場所を提供したりしています。 
 このように戦禍を免れたスウェーデンでは、戦後も引きつづき順調に拡大した工業生産が1950年代・1960年代には特に飛躍的な伸びを示します。
 こうした情況下で社会民主党政権は各種の社会福祉政策を実施し、スウェーデン人の生活水準は先進国中最高のものとなっていったのです。 
 続く1970年代の世界的不況のもとでは、重税・失業・インフレ・核エネルギーなどの諸問題で社会民主党に対する批判が高まり、1976年の国政選挙の結果、社会民主党は敗北し、44年に及ぶ長期政権の座を一旦降りることになりました。
 しかし新たに立った政党にこれらを解決する画期的な政策はなく、3年後には社会民主党が再び政権を奪回し、現在までその座を守り続けています。 
 そんな中、スウェーデンは着実に国民のための福祉政策を展開してゆきます。 一般的に言われる『高い税金を払いながらも確実な福祉社会が担保される国家』を、国民はいかにして受け入れていったのでしょう。
 このことについては次回の「スウェーデンモデル」と呼ばれる基本的概念について解説しながら進めていこうと思います。
 最後に、 「スウェーデンモデル」と言っても、決して色気のある話ではありませんよ。 念のため・・・。



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  •  好戦国家から福祉国家へ(2)

 スウェーデンはしばしば、「スウェーデンモデル」と呼ばれるシステムの上に築かれていると言われます。
 しかし、この「スウェーデンモデル」と言う言葉は、様々な意味合いで取り上げられていて、必ずしも一つのシステムを指しているわけではないようです。
 例えば、労資関係の研究者たちは「スウェーデンの集権的な労資関係と重層的な交渉システム」を、また他の研究家は「スウェーデンの経済政策や労働市場政策がインフレを回避しつつ完全雇用を貫いた手腕」を、さらに政治学者は「福祉国家への政治的コンセンサスを作り出した政治制度」を指しているようです(経済学者の言葉をそのまま引用しているため、ちょっと難解ですが)。
 1930年前半のスウェーデンには、遅れってやってきた世界恐慌の嵐や激しい労働運動の勃発、そして一方では少子化が進むなど、政治・経済ともに混乱を極めていました。
 そんな中で必要に迫られ、半ば自然発生的に、様々な政策要求を解決するべく、このようなモデルが構築されたとも考えられます。
 そして、この大胆かつ精緻な経済政策を展開したのが、現在もなお少数ながら政権政党たる地位を約70年間も維持し続けている(もっとも数年間だけ政権の座をはずれたことはありますが)社民党だったのです。
 社民党がここまで政権を保持できた背景には、次々と難局を打破してきたという実績だけではなく、この70年間に党首が3人しかいなかったことが注目されます。
 頭の挿げ替えが多くなると、しっかりと政策を根付かせることができないと思うのです。 (日本ではほとんど3年以内に首相が変わってしまいますからね。)
 さて、この社民党ですが、政権を掌握したハンソン内閣は、積極的な経済政策(「ケインズなきケインズ主義」と呼ばれます)を展開する一方で、「国民の家」にたとえた福祉国家形成に着手しています。
 彼らは次々と理論を実践に移して国民の支持を得ていくのですが、いかんせん少数政党であったため、他の政党との合意には苦慮したようです。
 そこで、後に言われる「歴史的妥協」と呼ばれる戦略が行われていくのですが(詳細は省きますが)、政党としての基本理念を保ちつつ妥協を行なうことは、容易なことではなかったでしょう。 
 では、社民党の基本理念はどのようなところにあったのでしょうか。
 それは、

 (1)物価の安定と、
 (2)国際競争力の維持

 にあったといえるでしょう。
 そして、それに対して行なわれた経済政策は、先に述べた

 (1)労資の「歴史的妥協」に基づく成長戦略
 (2)完全雇用を目指す労働市場政策
 (3)労組の連帯的賃金政策

 などが挙げられるのです。
 また、同時に福祉政策の領域では、人口問題の危機を契機として、家族政策の分野で普遍主義的な(耳慣れない言葉ですので、次回に詳しく説明します)福祉政策が提起されました。
 次回は、この福祉政策について述べていきます。


 

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  • 普遍主義

  前回のお話の最後で、スウェーデンの福祉政策が「普遍主義」の下に行なわれていることを述べました。
 この「普遍主義」とは、「福祉の給付やサービスを、所得調査を行うことなく、すべての市民を対象に行なうこと」を指します。
 そして、これに対する「選別主義」という言葉は「給付やサービスの対象を、所得調査によって限定していくこと」を指し、現在の日本のサービスの多くはこれにあたります。

 「普遍主義」においては、すべての市民が平等に給付やサービスを受けられるという利点があるものの、それに必要な予算が大きくなる危険性があります。
 一方「選別主義」では、給付やサービスに係る金銭については算出された予算内で調整が可能であるため、経済的な圧迫は少ないものの、給付やサービスを受けることに差別的刻印が伴うとされます。
 さらにもう少し追加しますと、普遍主義には後に出てくる「水平的普遍主義」と「垂直的普遍主義」があります。 
 「水平的普遍主義」とは、ある職域に限定されることなく全ての生活条件を横並びに包括する政策をいい、所得調査による一定の選別がありえるもので、「垂直的普遍主義」は所得階層に沿った縦の包括化であり、この場合は、基本的に所得調査は廃止されます。
 スウェーデンにおいては、初代社民党党首となったハンソンが、スウェーデンの将来像として、「誰かが他人を見下したり、その犠牲で利得を得たりする者のいない、そして強者が弱者を抑圧したり略奪の対象としたりしない」ような「良い家」に例えてスウェーデンそのものを「国民の家」と表現しました。
 そして、社民党そのものが「国民多数の支持によって、国民の家という夢を実現しうる真に強力な国民政党」としていくと発言し、国民に支持されたのです。
 もっとも、この「国民の家」という言葉は、スウェーデンの伝統的家族の理念の延長にあると言われ、言葉のシンボルとして大きな意味をもったようです。
 すなわち、国民にとっては本来の国民性となる理念が、かえって福祉政策への抵抗感を弱め、福祉国家の形成に人々を動員する力を生み出したともいえたのです。
 そしてこれを受けて、当初は家族政策から生み出された普遍主義の理念が国民の中に浸透していき、次第に健康保険や老齢年金の制度にも適用され、福祉国家を方向付けていくことになっていくのです。
 さて、前回にも述べましたが1930年ごろのスウェーデンは、出生率の低下に悩まされていました。多くのヨーロッパ諸国が同様の問題を抱えてはいましたが、小国で、しかも産業化が急速に進んだスウェーデンでは、特に事情が深刻でした。
 農業人口が減り続ける一方、死亡率の低下とともに人口は倍増し、さらには都市部の貧困と劣悪な居住環境のために、多くの国民がアメリカへ移住するという状況の中、出生率は留まることなく急激に低下していきました。
 人口1000人当たりの出生率は1899~1910年で26,8であったのが、1931~1935年では14,1にまで落ち込んでしまいます。
 (ちなみに、その頃の日本の出生率は30を越えていました。)
 出生率低下の主な原因は、婚姻率そのものの低下ではなく、既婚夫婦からの出産率の急激な減少でした。
 つまり、都市化が進む中で、生活水準の上昇を目指す人々が子供を(多くは)設けない・あるいはそれを余儀なくされるケースが増大していたのです。
 若い世代が直面する失業の脅威は子供をもつという決断を難しくし、また、結婚した夫婦が出産を避ける傾向の背景には、生活水準を上昇させる手段として女性の就労という選択肢があるにも関わらず、子供を生む時にそれを断念しなければならない現実があったからです。
 このような事態を打開するため、多方面にわたる社会政策が展開されました。以下にこれを紹介し、次号のお話へとこまを進めてゆきましょう。

  1)危機安定化プログラムの展開とも重なり合う住宅政策
  2)子供のいる家庭への水平的再分配という性格を持つ出産
  3)育児支援策
  4)女性の就労を可能にする条件の整備と労働時間の短縮

 

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  • 社民党の政策

 前回までのお話で、人口問題打開のための福祉政策および経済政策を最重点政策として、政権政党を勝ち取った社民党の政策理念を解説しました。
 実際に政権政党となった社民党は、住宅問題=人口問題の解消へ向けた「大建設プログラム」を展開する方針を明らかにし、さらに家族政策や年金の増額など福祉予算の拡充によって「家族の健全な育成と人口の維持」を図ることを主張しました。
 すなわち、ハンソンの提唱した「国民の家」の具体的な像が、ここに姿を現したのです。
 その中で、出産と育児に対する支援のあり方をめぐっては、特に注目されます。
 まず教育および公務員の給与に育児手当を付加するという提案がありましたが、これは既に他国(フランスやベルギーなど)に見られた「家族賃金」に他ならず、実現されませんでした

 次に提案されたのは、既婚であるか独身であるかを問わず、妊婦個人に給付される出産手当で、これは垂直的普遍主義の下(3000クローナという、穏やかな所得制限で、給付対象からはずれる者は1割程度であった)に実際に実施されました。
 この出産手当は、スウェーデンにおける普遍主義的な福祉政策の第一歩とされています。
 その後も人口問題委員会の答申に沿って、「分娩ベッド数の増強」と「国家補助による分娩時の負担軽減」、「200万クローナの住宅貸付基金」、「孤児や寡婦などを対象とした児童手当の導入」などが次々と導入され、さらに「女性の選択の自由や就労の権利を拡充する施策も実現していきました。
 さらに、1939年には従業員3人以上の企業においては、結婚・妊娠・出産を理由として女性労働者を解雇したり減給したりすることが禁じられ、また12週間以上の育児休暇が認められるようになりました。
 1940年代になると、ヨーロッパに戦争の影が次第に濃くなり、スウェーデンは参戦しないものの、軍事予算の拡大に伴い財源が逼迫(ひっぱく)し、妊娠扶助の所得制限を2500クローナに引き下げられるなどの後ろ向きの措置が目立ちだします。
 ところが、一旦上向いた出生率が再び下降し始めると、人口問題論議が再び盛んになりました。
 折からの有事のため、人口の減少は国外からの脅威を増加することが懸念されたのです。
 そこで、結婚資金貸付、家事ホームヘルプや保育所への補助、児童の夏季旅行の無料化など、やや規模の小さいプログラムを次々と実現していきました。
 しかし、より抜本的な改革が望まれ、その後は児童手当について論議がなされました。
 その結果、1946年には16歳までの全ての児童に児童手当を所得調査抜きで給付することに決着しました。
 また、この給付は、出産手当と同様に母親に対して支払われることになったのです。
 このように戦時においても、スウェーデンは社会保障を維持するべく努力を惜しまなかったと言えます。
 そうして、スウェーデンの社会保障の礎が時代と共に変化しながらも、着々と築かれていき、現在に反映されていると考えられます。
 次回は、ちょっと角度を変えて、スウェーデンの議会について触れてみたいと思います。




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  • コーポラティズム

  今回は社会保障のお話から少し離れて、スウェーデンの政策決定の流れをお話したいと思います。
 一口に言えば、我が国では政策を決定する上では議会が全てを決定していきますが(国家主導型)、スウェーデンではコーポラティズム(団体主導型)と呼ばれる制度をとっています。
 すなわち、政策を形成するための「調査委員会制度」と政策を執行するための「行政委員会制度」があるのです。 
 まず、政策形成においては、調査委員会とレミスと呼ばれる意見聴取手続きが中心となっています。
 内閣は重要な案件に関しては、議会における論議などを踏まえて調査委員会を設置します。
 所轄の大臣は諮問状によって、その趣旨を明確にした上でメンバーの人選を行います。
 調査委員会は行政官僚のみからなるものと、官僚・国会議員および労使などの各利益団体代表からなるものに分けられ、前者は極少数の委員(通常は1名)によって構成されるのが普通で、このような形態の委員会は全体の3分の1に相当します。
 これに対して、後者はコーポラティズム的制度へ発展していく基盤となります。
 これは、通常は議長を行政官僚が務め、国会議員と利益集団代表を構成員とします。調査委員会の規模は、全体を平均すれば4名ほどになります。
 調査委員会の数は、?世紀初頭には年間40~50程度でしたが、徐々にその数は増え、1970年ごろには年間に300程度まで増大しています。
 さて、調査委員会がその報告書をまとめると、報告書は当該事項に関係する利益集団および関係官庁に送付されます。 
 送付された報告書に対して関係利益集団は意見書を提出します。
 これがレミスと呼ばれる意見聴取手続きです。
 労働組合や経営者団体は、労使関係に限定されない幅広い問題について意見の表明を求められます。
 送付を受けた団体では、専任のスタッフや責任機関、場合によっては特別の作業グループが協議の上、回答を行います。省においては寄せられた回答を集約し、調査委員会報告と併せて検討資料とした上で、関係する他省とも協議の上、議会に提出する法案の作成作業に入ります。
 最終的には政府の手によってまとめられた法案は、議会の常任委員会に送付されます。
 このように、調査委員会は労組が福祉政策の形成過程において自らの関心を表す回路として重要でしたが、それよりも経営者団体や保守・中道政党との接触を通して、その戦略を調整する場として大きな意味を持っていました。
 さて、政策形成機関という性格が強い省に対して、議会における決定を経た政策の執行に責任を持つのが庁です。
 庁は省に対して通常は規模も大きく、相対的な自立性を持っています。
 構成メンバーは歴史の中で様々に変化していますが、概ね労使代表のような関係利益団体の代表が官僚とともに委員会を構成しています。
 これは、労働運動に対する権力資源の効果的動員のために、影響力行使の回路となる政治の制度についての戦略をも重要な構成部分としていたのです。 
 次回は、いよいよ現在のスウェーデンの社会保障について解説しようと思います。



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  • スウェーデンの現在の社会保障(1)
    ~スウェーデンの経済から見た社会保障~

 これまでスウェーデンの様々な側面をお話して来ましたが、結局のところ、皆さんが持つスウェーデンと言う国のイメージはいかがでしょうか。
 まず、わが国に比べてずば抜けてすばらしい社会保障制度が完備した国であるという一面と、他方では行過ぎた社会保障のために国民が勤労意欲を失って、経済がダメになっているというイメージを抱く方は多いのではないかと想います。
 事実、スウェーデンの社会保障関係への公共支出は、1991年ではGNP(国民総生産)の49.0%であるのに対し、わが国では15.2%です。
 この時点で、わが国の社会保障関連支出の対GNP比はスウェーデンの三分の一以下となり、社会保障に対する支出はスウェーデンが圧倒的に多いことが分かります。
 そのために確かに、スウェーデンの税金はGDP(国内総生産)比からすれば高く、GDPの約52%に相当していると言われています。
 ちなみに、フランスのそれは45%、英国では37%、米国では29%と言うことになっています。
 実際、スウェーデン人は個人所得に関しては、他のどの国よりも高い率の税金を払っており、税率は累進化税制になっていて、収入が増えるに連れて急カーブで税率も上がるようになっています。
 ところで、この税金についてですが、わが国との比較をしてみると、1995年の税では、GDPに占める割合が49.7%であるのに対して、わが国では28.5%となっています。
 しかし、その内訳を見てみると、スウェーデンの所得控除がほとんど認められていないことが分かります。
 つまり、日本では社会保障的支援とはほとんど関係のない所得控除、すなわち給与所得控除と基礎控除を除いた所得控除、具体的には配偶者控除・配偶者特別控除・扶養控除・社会保険料控除・生命保険料控除・損害保険料控除・医療費控除などによる減税額は、実際に徴収されている税額とほぼ同額になるとの報告があります。
 つまり、もしそれらの控除がなかったら、我々が納めるべき所得税額は現行の約2倍となっていることになります。
 すなわち、日本では種々の間接税が多く、また額も大きいのですが、スウェーデンはほとんど直接税でまかなわれているため、押しなべるとさほど日本とスウェーデンでは納税額は変わらないのかもしれません。
 さて、このスウェーデンという国には医療保険はあるのでしょうか? 実はスウェーデンにおいては、国民健康保険は国民保険法によって規定されており、スウェーデン在住の被保険者は全て16才に達した月から、地方保険事務所に自動的に登録され、また最低1年間以上滞在する人も、住民登録をすると同時に社会保険に強制加入させられるようになっているのです。
  この国民健康保険は、傷病手当、リハビリ、医療主体に対する補助、医薬品、歯科、近親者介護手当、両親保健から成り立っています。
 医療財源は保険料収入と国庫負担でまかなわれています。
 そして、スウェーデンの医療費の特徴ですが、国民は年間で約160米ドル(日本円にして約17,000円)を超える治療費および薬代を支払う必要はありません。
 コストの内、患者が負担する部分のほうが少ないようにできています。 
 さて次回は、スウェーデンの現在の医療の仕組みについてお話します。

 




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  • スウェーデンの現在の社会保障(2)
      ~スウェーデンの医療機関~

 今回は、スウェーデンにおける医療機関の特徴をお話しします。
 スウェーデンでは、診療所および病院のほとんどが公立であり、私立病院のベッド数は1割程度といわれています。
 どの地方自治体(コミューン)にも必ずあるのが地区診療所で、これが日本の町の個人診療所に当たり、人口1万人につき1か所という目安で設置されています。ここは地域住民のプライマリーケアを担っていて、外来患者の診察や、より高度な検査や治療が必要な時の病院の紹介、在宅医療などで多忙を極めています。
 地方自治体の数は285前後(毎年変化している)で、地区診療所は850前後におよびます。 
 ストックホルムやヨーテボリなどの大きな自治体は、いくつもの医療地区に分けて地区診療所を設置しています。
 高齢者や小児、障害者の医療を担当する訪問看護婦のステーションは、地区診療所にある場合と、ナーシングホームや障害者などの福祉施設にある場合、あるいは地域に単独である場合もあります。
 これは全国に1600か所あり、各地域に分散して設置されています。
 訪問看護婦もまた多忙で、在宅医療だけでなく、癌で亡くなった方の親族の心のケア、妊婦の検診や産前産後教育、青少年の性教育などに飛び回っているのが現状です。
 担当科目によっては、専門的な地区診療所をおく場合もあります。 例えばストックホルムのブロンマ精神病センターは、小さいながらも診察・短期入院施設をもっています。
 高度医療は、中規模の地区病院が20万人に1か所、大規模な中央病院が30万人に1か所の割合で設置されています。
 地区病院は全国に58あり、最低でも内科、外科、放射線科、麻酔科はあり、加えていくつかの専門科をもつところもあります。
 中央病院は各県に最低1か所あり、全国に25あります。これが総合病院の役目を果たしています。 
 どちらも身体の急性期医療を行う場であり、治療が終われば直ちに患者は地方自治体のリハビリ施設やナーシングホームに移管されます。規定の期間内に自治体が患者の移管先を作り出せない場合は、自治体は県に罰金を払う必要があるのです。
 また高度先進医療は、全国に6つある医療区に設置された9つの病院が担います。
 同時にここは、医療区にある大学医学部の教育の場でもあります。
 ストックホルムのカロリンスカ病院やヨーテボリのサーリグレンスカ病院がこれに当たります。
 このように、スウェーデンでは診療所が地域の住民の診療を一手に引き受けており、より高度な治療などが必要なときには地区病院や中央病院に紹介され、一定の検査や治療が終わると、地域の医療機関に戻ってくるというシステムになっています。
 このことで、住民は地域での生活が担保されているとも言えるようです。 
 次回は現在の医療制度についてお話しします。




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